台湾文化

「祭姪文稿」日本初公開!故宮博物院所蔵の秘宝に迫る

現在、東京上野の東京国立博物館にて、特別展「顔真卿 王羲之を超えた名筆」が開催中です。1/16~2/24までの期間限定で、顔真卿の三稿の一つと言われた「祭姪文稿」が公開されているとあって、そのためだけに来日する中国人がたくさん来るなど、大きな話題を呼んでいます。

今回は台湾の故宮博物院所蔵のこちらの作品に注目し、なぜそこまで人気なのか、そしてそれにより生じている騒動まで見ていきます。

顔真卿とはどのような人物か

顔真卿は唐代を生きた政治家・書家です。709年-785年を生きたので、ちょうど日本で言う奈良時代に当たります。

孔子の弟子であった顔回の末裔と称しており、顔家は学問と能書で知られ、後に学家とも呼ばれることになります。頭の顔真卿も唐代随一の学者、芸術家として知られています。

ここでは祭姪文稿に注目するため、中国の書道史という観点から彼に少し目を向けて見ましょう。

中国では、王羲之(303-361)が書聖と言われ、書の芸術性を確固たるものとして確立した存在と言われています。特に唐の太宗皇帝が惚れ、全土に広まった書を集めさせ、臣下に模写させたことで、神格化に拍車がかかりました。後世に与えた影響は甚大で、日本でも奈良時代などでは、王羲之の書が手本として扱われました。科挙では、王羲之の書が手本とされ、それと異なっていれば間違いとされるなど、まさに絶対的な存在です。

しかし、悲しいことに、王羲之の書の本物は、戦乱などで失われもう現存していないとされています。現在見つかっているものも、本物の忠実な模写です。ですが模写であっても、今回顔真卿の書が展示される東京国立博物館で展示されるなど、絶大な人気を誇っています。

そして彼の400年後に生まれたのが顔真卿です。彼は行書においては書の達人として王羲之に匹敵するとの高い評価を得ています。そして今回の祭姪文稿は行書体で書かれたものになります。楷書においては、王羲之に反する蔵鋒という書法を確立したことで評価は分かれていますが、名筆家であることには違いはありません。彼の書法は顔法と呼ばれ、多くの支持を集めました。

顔真卿に影響を受けた人物としては、弘法大師(空海)がいます。空海は774-835年に生き、唐に渡り学を修めた際に顔真卿の書を知りました。空海は嵯峨天皇・橘逸勢とともに三筆に数えられ、「弘法にも筆の誤り」のことわざで知られる空海にも影響を与えたというのは目を見張りますね。

祭姪文稿とはどのような作品か

そんな顔真卿の数ある名著の中でも、三稿の一つと言われたのが「祭姪文稿」 です。

758年に記されたこちらの作品、一見すると書き間違いを塗りつぶしてあったりして、失礼を承知で言えば、本当に作品?という感じもありますが、激情を綴った中身を考えると、その書体の迫力に込められた凄惨な思いが理解でき、名著であることが容易に分かります。その情感を表した樣は、王羲之の最高傑作とも言われる「蘭亭序」(353)にも匹敵すると称されています。

背景を東京国立博物館の紹介文から引用すると、以下のようになります。

755年に安禄山と史思明らによる安史の乱が勃発すると、玄宗皇帝は成都(四川省)に亡命し、唐の都長安は安禄山らに占領されました。内乱は8年の長きに及び、 763年にようやく収束します。顔真卿は義兵をあげて乱の平定に大きく貢献しましたが、従兄の顔杲卿とその末子の顔季明は乱の犠牲となってしまいました。「祭姪文稿」とは、顔真卿が亡き顔季明を供養した文章の草稿で、悲痛と義憤に満ちた情感が紙面にあふれています。最初は平静に書かれていますが、感情が昂ぶるにつれ筆は縦横に走り、思いの揺れを示す生々しい推敲の跡が随所に見られます。

東京国立博物館

ちなみに現代語訳を書き写すと以下のようになっています

乾元元年(七五八)、戊戌の歳、九月庚午の一日より数えて三日壬申の日、汝の第十三番目の叔父である銀青光禄大夫・使持節蒲州諸軍事・蒲州刺史・上軽車都尉・丹陽県開国侯の真卿は、礼酒や諸種の供物をそなえ、ここに亡き姪にして賛善大夫を贈られた顔季明の霊を祭る。

汝は人に抜きんでた才能をもち、幼い時から立派な人徳をあらわし、宗廟の瑚璉のような重臣、宮庭の芝蘭や玉樹のような人物となり、つねに人の心をなぐさめ、やがては福禄を享うけるであろうと期待されていた。

しかし、逆臣の安禄山が朝廷の隙をうかがい、反旗を翻し挙兵しようとはいったい誰が予期しただろうか

このとき汝の父の顔杲卿は忠誠をつくして、常山郡の太守をつとめ、私もまた朝命を受けて、平原郡の太守であった。仁兄顔杲卿は私をいつくしみ、汝を使者として双方の連絡をとったのである。

汝が私のもとから帰り、要衝の土門を敵から奪回して開通し、土門が開通したことで、凶賊の勢いは大いに弱まった。

しかしながら、賊臣の王承業は救援を送らなかったため、常山城は周囲を凶賊に取り囲まれて孤立し、父は賊の手に捕らえられ、子は殺され、まさに鳥の巣が傾いて、中の卵が転げ落ち壊れてしまったのである。

天がわが一族に禍を下したことを悔いはしないが、何故このような苦毒を受けなければならないのか。汝が残虐な死に遭ったことを思うと、私の身体を百回身代わりにしても、どうしてつぐなうことができるだろうか。

ああ、哀しみの極みである。

私は天子の恩恵を蒙り、蒲州の長官として民を治めることになった。汝の兄の顔泉明が最近ふたたび常山に行き、汝の首を納めた棺を携え、ようやくここ蒲州に帰還した。

汝を思うと哀れみの思いで胸が張り裂け、腸が断ち切れ、その死を悼いたんで心身を震わせる悲憤にかられる。
いつの日か、汝が安らかに眠る墓を作って安住できるようにしてやりたい。

汝の魂が私のこの思いを分かってくれるなら、異郷に長くさまようことを嘆かないでもらいたい。

ああ、哀しみの極みである。

どうかこの祭りをうけておくれ。

https://ganshinkei.jp/

展覧会に人が殺到する訳とは?

ここまでで、祭姪文稿がどれほどの名書であるかはお分かりいただけたかなと思います。しかし、それで人が殺到するのには理由があります。それはほとんど公開されることがないからです。

祭姪文稿は現在台北の故宮博物院に所蔵されています。しかし、この20年で展示されたことはほとんどありません。(ちなみになぜ台湾にあるのかと言えば、元々は北京の紫禁城にあった財宝が、中華民国(蒋介石)の手によって北京から南京へ、そして台湾へと持ち込まれたからです。よって”故宮”=紫禁城という名称になっているのです)

故宮博物院のサイトによると、2001/10/10 ~ 2001/11/20、 2008/10/10 ~ 2008/11/20、2011/12/03 ~ 2012/01/03の3回、しかもそれぞれ42日間を超えては展示されていません。

書は他の絵画、彫刻に比べると脆いので、厳重な管理が必要になります。劣化を避けるため、展示は極力避けられているのです。

故宮博物院と言えば、白菜や豚の角煮に見える石が日本でもかなり有名ですが、珍しさや文化的な価値で言えば、祭姪文稿の方がはるかに価値のあるものになります。

また、王羲之の肉筆はすでに残っていないと言われていますが、顔真卿も同様で、肉筆は10点も残っていないと言われています。その中でも最高傑作に当たるので、書を習っている者としては必見です。

今回の展示に当たり、いつくか騒動も起きています。それはなぜこれほどの至宝が日本に渡っているのかということ。台湾の人でも見られない、そして台湾の領有権を主張している中国でも見られないのになぜ日本でということ。またこれらをグッズにして醤油皿やお菓子のパッケージにするなど、顔真卿の書の価値の分からないところで展示されていること。

また以前には、国立故宮博物院の国立を日本で記載するかということも問題になりました(日本では台湾を国として認めていないので”国立”という表記が適切か)。今回はホームページ上では国立と記載しているようです。よってこれは台湾の日本へのすり寄りではないか、という意見もあります。

まとめ

今回は詳細に顔真卿の書を解説してきました。最後にいくつか論点はありますが、これだけの書を間近で見られることは本当にないので、ぜひお時間のある際に東京国立博物館まで行ってみてください(ただし祭姪文稿はかなり並びますので覚悟してくださいね^^;)

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台湾人と国際結婚した日本人夫。新卒として外資企業で日々奮闘中!他の台湾ブログはここからチェックしてください → 人気ブログランキング にほんブログ村

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